LEO KOMINZ
東京トンカツ物語
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「僕はルーティンが嫌いなんです」と日々、聞いてくれる人には口うるさく言っていながら、実際には多くのルーティンの中で生きている私コミンズ・リオだが、その一つの例が「SHIBUYA TSUTAYA」と「宮益坂・かつや」に現れている。未だ漫画を全て書籍で購入し、アルバムや映画のCDやDVDをわざわざ物理的にレンタルすることに悦びを感じるアナログ人間なのだが、これらの行為を実行する場所が「SHIBUYA TSUTAYA」であり、SHIBUYA TSUTAYAに寄る前後によく食べるのが「宮益坂・かつや」である*1。漫画・書籍・映画・音楽のコレクションがあそこまで揃っているのはSHIBUYA TSUTAYAぐらいしかないので、そこを活用する理由はわかりやすいと思うが、渋谷に点在する無数の飲食店の中でなぜ「かつや」なのかというと、理由はいくつかある。一つは、私コミンズが無類のトンカツ好きということがあり、安価かつボリューミーで、さらに定期的に新メニューを出してくる「かつや」は単純に飽きない。同時に、「宮益坂・かつや」を好む理由は、そこに様々な形の「多様性」が見られるからである。

人によっては「変人の町」*2と呼ばれるオレゴン州ポートランドで生まれ育った背景、一年をかけ世界の違う都市に1ヶ月ずつ滞在した「World in Twelve」というプロジェクトの実行した過去、そして現在取り掛かっているSEAMES*3というライフワークなど、読者にはすでにご存知かもしれないが、私コミンズ、「多様なもの・こと・ひと」が大好きなのだ。「普通じゃない」=「最高」という、いわゆる中二病のマントラが未だ心に刻み込まれており、独特さや奇妙さからくる「違い」「変化」「新しさ」こそが人生に豊かさを与えると信じている*4。そのマインドで臨む「宮益坂・かつや」は、もはや多様性のテーマパークだ。客層は、メイン層である明らかにお金を持ってなさそうな若者から、スーツを着たサラリーマンまで。建設現場からやってきた作業着の軍団もいれば、形容しがたい容姿をしているおじいちゃんまで。カツ丼の竹(大盛り)を無心に掻き込む若い女性もいれば、クレジットカードが使えないことに困惑している外国人観光客もいる。東村アキコの「東京タラレバ娘」的には「OLだって赤提灯で飲んでるのが東京」であり、確かに一定レベルではそう言えるのかもしれないが、なんだかんだマジョリティを見てみると「飲食店が客層を選ぶのが東京」のほうが真実だと思う。そして、その中で本当の意味で「るつぼ」と化している場所は、ハブ駅の繁華街と言う特定エリアのファーストフード店ぐらいしかない。

しかしこの多様性は何も客層だけに限るものではない。国家レベルで行われている外国人の労働研修制度導入により、2019年現在、東京23区のコンビニとファーストフードの店員の多くが東アジア・東南アジアの若者と言う現状で、それは「宮益坂・かつや」も変わらない。それどころか、自分の記憶が正しければ、相当初期段階から外国人が働いていた気がする。しかも働いている店員の国籍もバラバラ、チョウさんが取ったオーダーをニェンさんが用意し、パクさんが水のお代わりを入れてくれるのがこの店だ。さらに長年勤め続けている初老の男性と、パートのおばちゃんっぽい女性もおり、文字通り、店員サイドの多様性も深い。多国籍の老若男女が一つの場所で働き、一つの「公用語」(しかもそれが日本語)を話している現実を見ると、そこには日本の未来が映し出されているのではないかとさえ思えてくる*5。

とんかつを頬張りながらあたりを見回し、上記のような形で日々、チェーン店の多様性を楽しんでいる私コミンズなのだが、ある日、それまでの自己イメージの根幹を揺るがす事件が起こる。

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同じくルーティン化している例の一つが「柴崎バスケ」と「小田急エース館・とんかつさぼてん」である。こちらは「SHIBUYA TSUTAYA」と「宮益坂・かつや」のルーティンよりはわかりやすく、単純に、調布市柴崎駅にある体育館でバスケをした後、京王線で新宿まで帰り、小田急エース館の地下にある「とんかつさぼてん」で昼食を取る、といったものだ。ちなみに、なぜバスケの後に、それこそ新宿西口に数あまたある飲食店の中から「とんかつさぼてん」で食べているのかと言うと、単純に私コミンズが無類のとんかつ好きということもあり、一緒にバスケをやっている仲間も好きだから、としか言いようがない(というか運動をした後の肉のうまさというのは誰もが共感できると思っている)。その中で「さぼてん」が京王線の改札から近いというのが一番の理由だろう(3時間バスケした後のメンズは腹ペコで、出来るだけすぐ食べたいのだ)。

なお一つ、話を進める上で重要になってくる点が、とんかつチェーン「さぼてん」のマニュアルの特殊性である。どこが特殊かと言うと、店員がメニューや店のサービスを説明する際、それらにつける形容詞である。例えば、店員は「キャベツ」と一言で言うことはなく、必ず「シャキシャキのキャベツ」と言うのだ。まるでうちには普通のキャベツなどなく、「シャキシャキのキャベツ」しかない、と訴えるかのように。このような形容詞をご飯や他の商品にもつけてくるので、正直申し上げると若干鬱陶しく感じることもある。良いか悪いは置いといて、このような「超マニュアル厳守主義」が至るところ感じられるのがとんかつさぼてんなのである。

ある日バスケを終えた後、普段一緒に昼食を食べるメンツ全員に予定が入っており、1人で「小田急エース館・とんかつさぼてん」に向かった。普段はグループで訪れるのでテーブルで食べるのだが、1人の時はカウンターに通される。カウンター自体は細長いテーブルで真ん中に仕切りがあり、その両側に客が座る様式。また、仕切り自体はガラスなのだが、ちょうど反対側に座っている人間の顔が見えないぐらいの高さで、上の部分が曇っている仕様となっている。なので、逆に言うと、対面に座っている人の顔は見えなくても、首より下は丸見えと言うことだ。

その対面に座っている客に違和感を感じたのは、すでに自分が頼んだ定食が届き食べ始めた後のことだった。その客が店員に向かって「フォークをもらえますか」と頼んだからだ。「フォークでとんかつを食べる…?」と疑問に思い、自分が見える範囲(曇りガラスより下)を注意深く見回した。まず、最初にスマホが目に入る…なぜならスマホが首からぶらさがっているからだ。首からスマホ…これもなんか変わっている。さらに着ているTシャツは何かしらのアニメ関連で、いわゆるアニメ少女たちが複数人ポーズしている。そのアニメ少女たちも、その男性客の体型がぽっちゃりだからか、引き伸ばされ変形している。最後に、その客が食べている食事をみて見ると、いろんなものが四方八方に飛び散っており、正直に申し上げて、かなり汚い。私コミンズは推理を巡らせたあと、結論にたどり着く。偏見込みで申し訳ないが、要はザ・オタクって感じの人なのだろう。リュックを背負って、首からスマホを下げて、アニメのTシャツを着て、食べ方も自由勝手。世間の常識からちょっとズレた、中年の男性。そう言う人もいるよね*6。

少し時間が経ち、店員による何回目かの「シャキシャキキャベツのおかわりはいかがですか〜」を退けた後、対面の客が食事を終えたことに気づいた。フォークを使用し、綺麗に完食している。なんなら、気づかなかったが、いつの間にか味噌汁ようのスプーンまで用意されている。そして、彼が会計に向かった際、衝撃が走った。テーブルより下だったので気づかなかったのだが、対面に座っていた男性客は車椅子に座っていた。そして、少し手惑いながら、膝に抱えたリュックから財布を取り出している。

全てを理解した瞬間だった。手足が不自由なのだ。だからスマホを首からかけてるのだ、ポケットから取り出すことが用意じゃないから。だからフォークを頼んだの、お箸は使いづらいから。アニメのTシャツは別にオタクじゃない、ただの趣味だ。というか、オタクだったらなんなのだ。

さらに観察を続けると、レジの女性店員の行動に驚いた。わざわざカウンターの後ろから出てきて、車椅子の男性と同じ目線になるように膝をつき、リュックから財布を出すのを手伝っている。そこまでやる必要なんてないのに…そしておそらくマニュアルにも「車椅子のお客さんのためには膝をついて手伝う」と書いてないのに。そういえば、フォークを持ってきた男性店員は、お願いされていないのにも関わらずスプーンも一緒に持ってきている。あれは彼なりの心遣いだったのだ。

生まれてきてこのかた、トップレベルの自己嫌悪だった。何が「多様性を楽しむ」だ。手足が不自由な男性を、一部しか見えなかった外的要因からのみ「世間とズレたオタクだ」と決めつけた。臨機応変に目の前のお客さんのニーズに対応し、さらには見事なまでの心遣いを発揮した店員たちを、商品にいつも同じ形容詞をつけるからと言う理由だけで「マニュアル人間」だと決めつけた。全くもって想像力に欠けている。「こういうもんでしょ、こういう人って」と言う、怠惰ゆえの思考の欠如からくる自己肯定感しかない、偏見まみれの思いこみ。全ての多様な可能性を想定して考えることが強みだと思っていた自分に突きつけられた、目を冷めさせる現実だった。

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今回の話に特別なオチはない。むしろただの懺悔だ。もし何かあるとすれば、自分自身が激しい自己嫌悪を経て学んだように、改めて「決めつけ」や「思いこみ」は恐ろしいということだ。人間は無意識にも、いとも簡単に考えることを放棄し、「こんなもんでしょ」とか「こうだったらいいのに」と言う色眼鏡前提で物事を判断する。あなたも次トンカツを食べる時、一度あたりを見回し、このことについて考えてみても面白いかもしれない。僕自身は毎回考えている。

*注釈’s*

*1: 蛇足かもしれないが、「TSUTAYA」はもともとCDとDVDレンタルショップから始まり、現在は本やゲームの販売、スターバックスと一緒におしゃれなカフェなども運営している。「かつや」はとんかつやカツ丼のチェーン店。※なおこのエッセイに出てくるかつやはすでに無くなっている。なお、宮益坂店は現在では閉店。

*2: ポートランドの変人性はどこで語りたいと思うが、どこがいいのだろうか。エッセイを書くか。

*3: SEAMESは、2019年9月に、コミンズ・リオがNPO法人Learning for Allの代表、李ヒョンシキと始めた会社。Socially Engaged Art Media Entertainment の頭文字をとった、現場主義のNPOと共に、アートやエンターテインメントの媒体を通し、企業や著名人を繋げ、情報と活動を拡散させていき、最終的には「社会正義の一般化」を目標とする企業。

 

*4: だが、一つ重要な点は、ただ新しいためだけに新しいものはむしろ嫌い(古さが残る地域やエリアの、デベロッパーの拝金主義の為だけに実行される再開発など)。これについてもまた別のエッセイで詳しく書くと思う。

*5: こういう例は定期的に色々な場所で見て取られる。六本木の大戸屋でアジア系の外国人店員に「チキン母さん煮をお願いします」と頼むフランス人っぽいお客を見かけたが、思わず「それ、どっちの母さん…?」と脳内でつっこんでしまった。新橋の吉野家では、日本語で喧嘩する、違うアジアの国の店員がいて、喧嘩そのものより(確かどっちかが出勤時間に遅れているとかだった気がする)、店員二人の言語レベルの高さにまず驚いた。外国語を学んだことある人はわかると思うが、外国語で喧嘩するのは非常に難しく、思わず感心してしまった。

*6: 最後に言いたいのは、いや、わかってるよ、お前が「ズレてる」とか「オタク」とか言うのかよ、ですよね。むしろ、基本的にはオタクは超肯定なのですが…そうしないと自己否定になってしまう…。

text:
コミンズ リオ
illustration:
Nagi Kamahara
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v02
18-04-02