ちょうど大学四年生の終わりの頃だったか、私コミンズ・リオは「性行為の平等性」に対して耐え難い不満を覚えていた。「村上かつら短編集」だったか、浅野いにおの「ソラニン」だったか、山本直樹の作品集を連チャンで読んでいた時だったか、それとも高田馬場のBOOK OFFに訪れ、100円コーナーで見つけたFEEL YOUNGコミックスを片っ端から購入していた時だったか、それぞれ作品の面白さには感銘しながらも、「性行為の平等性」に対してはイライラしていた。なんなんだ、この登場人物達たるや。授業をサボり、ひたすら部屋にこもる抜け殻のような大学生の男女。やりたいことも希望もなく、ただ無気力に生きるフリーターカップル。狂ったように若い肌を求める窓際サラリーマン、仕事や趣味では満たされない心の空洞を不倫相手への想いで埋めるアラサーOL。軽薄的な意味で人生に絶望感しか抱いていないはずなのに、しかし、みんなセックスして、みんな気持ちいい。これってなんかずるくない?人生で一番のライフハックじゃない??
「等価・対価論」では、快感には必ず対価があると書いたが、この「性行為の平等性」はどちらかという快感自体のクオリティに重きが当たる。例えば、食に置ける快感だと、わかりやすいクオリティの違いがある。仮に「吉野家」があるとしよう。そう、かの安くて速くてウマい、牛丼チェーンの吉野家だ。吉野家に行くたびに思うことが「まじで吉野家って美味しくない?どうやって400円前後でこのクオリティを担保してるんだ?ロンドンだったら1200円とれる味だぞ?」である。要するに、大変満足して完食し、帰路につくのでだ。ただ、たまにもっと高価な肉、例えば一枚4000円するすき焼きを食べると思うのが「やべえ!めっちゃ美味しい!!吉野家も美味しいけど、やっぱりいざ食べてみると高級すき焼きの肉の質が全然違うわ!!」である。大変シンプルな因果関係。こと食においては、お金の価値と快感クオリティの比例がある程度保証されている世界に我々は生きている。
しかし、快感のクオリティは何も金銭的価値に限る話だけじゃない。例えば「努力」もそうだ。大事なプレゼンのために数週間準備し、成功させた後に飲むビール、必死に毎日何時間も練習してきて、ライバルチームに試合で勝った後に食べる焼肉*1、など、それまでの努力が快感に与えるプラスの指数は大きい(もちろん努力の成果が実った快感もこれに加わる)。ただ、性行為は、この法則に必ずしも当てはまらない。もちろん、大事なプレゼンを成功させた男性が家に帰り、その高ぶりをそのまま妻が待つベッドに持っていき、普段はセックスレスすれすれのマンネリかつ単調でしかないその行為が、その夜は大変盛り上がり、快感のクオリティがぐんっと上昇する、みたいなことはあるかもしれない。しかし、同時にそれが全く起こらない可能性も含まれている*2。そして逆に、その人がプレゼンを成功させた日の同日、都内の全く別の場所で、夜食のカップ麺用のお湯を沸かしたこと以外は何一つ「頑張り」を見せてないサボタージュ系大学生カップルは、「若さと衝動と体の相性」という三種の神器を揃えている、という理由だけで最高に気持ちの良いセックスを体感する。「食の快感」に置いて、400円の牛丼に乗っかってる肉はどう料理しても一食に数万円かかるレストランの肉料理のフルコースには変えられない。しかし「性の快感」に置いては、400円のペヤングの超超超大盛りGIGAMAXに喜ぶ彼女のほうが、ディナーからバーからホテルから次の朝のエステ代で数万円かかる「社会的地位のある才色兼備女」よりも、はるかに高い快感のクオリティを感じることが可能なのだ。
理由は明白だ。「自然の摂理」…それだけ。結局我々人間は動物の仲間であり、文字通り「産めよ増やせよ」がDNAに書き込まれおり、性行為の「行為」部分だけ見ると、そのハードルは著しく低い。第二次性徴期に突入した人間なら、理論上は誰でも可能なのだ。そして、地球の成り立ちから二人三脚で存在している「自然の摂理」さんのハードボイルドな片割れ「弱肉強食」さんは、弱い立場の人間が今まで淘汰されてきた三大現象「戦争」「疫病」「飢餓」が21世紀に入りほぼ撲滅されたため、人間社会に置いては消えかかっている。そう、強者弱者関係なく、誰もが相手を見つけ、子孫を残す行為に励むことのできるパラダイスに、「人間界という自然界(笑)」は変わっているのだ。
私コミンズ・リオは、養老孟司や宮崎駿の「自然」に対する考えには大いに共感するものの、たまに遭遇するヤバ目なトリー・ハッガー*3みたく、人間が自然界に戻ればいいとは思っていない。また、思想的にはリバタリアンでもなく、市場がコントロールする激しい競争が必ずしも正しいとも思っていない。ただ、そうは言いながらも、SMAPが歌うような「みんな違ってみんないい、もともと特別なオンリーワン」の考えには反吐が出るし*4、蓮舫が言うような「二番じゃダメなんですか?」などの発言にも目眩がする。いちいち理由は記載しないが、要するに、一定レベルの平等性は担保しながら、誰にでもチャンスはあり、その上で努力した人や成果をあげた人は報われるべき、と考えている。そんなおかしな話じゃないでしょ?
日常を過ごすにつれ、定期的に、ふとこの考えを「性行為の平等性」に当てはめたりし、その度に様々な変なアイデアが浮かんでくる。例えば、その日、何も頑張らなかったカップルのセックスでは双方絶頂に達せない世界だったらどうだろう、とか。仕事をした量によって視聴できるAVの時間が決まるので、ある程度頑張らないと楽しくオナニーもできない世界だったらどうだろう、とか。基本的にアホなことばかりなのだが、去年(2018年)だったか、自分でも「これはなかなか」と思ったアイデアが浮かんできた。
そこは、人によって性器の形が異なる世界。例えば、男性だったらアソコが三角柱だったり、円すいだったり、立方体だったり。それに対して女性のアソコもその形が見事にフィットする形になってる。なので、そう簡単にセックスなんてできない。頑張って口説いて、家に連れて帰って服を脱がして、さあおっぱじめようとなった時に、男性の性器が立方体の凸で、女性の性器が円すいの凹だったら、そのまま試合終了なのである。しかも、例えば100人に一人ぐらいは、珍しい「星型」の性器で生まれてくる。この人は大変だ。日常生活の中で相手がそもそも見つかるかもわからない。ただ、逆に出会えたらそれは相当印象に残るはず。その世界では誰もが自分とフィット(なんどもごめん笑)する人を探すために努力するだろうし、いざ自分と同じ凸凹のパートナーに出会えたら、全ての体験が何倍も貴重に感じられるのではないだろうか*5。
…とまあ、結局は総括すると変わらずアホなことを考えていたのだが、その矢先に「とりあえず映画100本見ようプロジェクト」**の最中に遭遇したのが、バリー・ジェンキンス監督の「ムーンライト」だった。その年のアカデミー賞に置いて「ララランド」との騒動に巻き込まれたがゆえに忘れかけられてるが、アカデミー作品賞も受賞している映画であり、構成と演技力が素晴らしかったがゆえに、テーマを実にリアルに伝えていた。以下(※ネタバレ注意※)でお送りするが、映画自体は、麻薬中毒のシングルマザー+貧困家庭+ゲイ+黒人という、生まれた瞬間から人生ウルトラハードモードに設定されている主人公の、小学校高学年時代・高校時代・20代半ばの三つのライフステージを垣間見るものとなっている。ここからは※ガチネタバレ※だが、最後のシーンで、主人公は、自分のことを理解してくれた(そして同時に人生をめちゃくちゃにした)唯一の知人と10年ほどぶりに再開し、その彼に高校生のころ月光下の浜辺で施された手コキ以外、人生で性行為を体験したことないと告白する。その告白を知人は優しく受け入れ、彼を抱擁する。
これをみて思った。そうか、性愛は救済措置でもあるのか。快感は生きる糧の一つであるのは確かだ。なんらか未来に快感があるという希望があるからこそ、人間は今しんどくても頑張っていける。そして、性愛以外の他の快感は、上でも記したように、お金や努力と連動している。産まれた環境が恵まれない、貧困のサイクルから抜けられない、持病や障害で体が不自由、幼くして肉親を失くした、最低賃金で朝から深夜まで仕事を二つ掛け持ちしてやっと子供を養える、いつまでたっても終わらない「研修期間」で最低賃金以下で長時間工場労働を強いられる…このような環境に身をおく人たちは世界中に大勢いて、その人たちに「もっと高尚な快感をお金でかえよ!」「もっと努力しろよ!」というのはあまりにも酷だ。しかしそんな彼らにも性愛からくる快感は平等に訪れる。孤児にも老人にも、シングルペアレントにも移民難民にも、ちゃんとセックスは気持ちいいのだ。
そりゃそうだもんな。麻薬中毒のシングルマザー+貧困家庭+ゲイ+黒人という条件の元産まれてきて、20数年経ってやっと出会えた自分を受け入れた相手に、「え、お前アソコ星型?まじかよ…星型って本当にいるんだ…。俺、普通に三角柱だからな…残念だわ…」と言われる結果だったらあまりにも、あまりにも悲惨すぎるよね*6。
*1: 私コミンズ・リオ、仲間と共にバスケをし、肉を喰らい、銭湯で汗を流す、通称「バニセン会」を開いているのだが、古巣メンバーのおぎーは必ずと言っていいほど、この肉と銭湯の間のどこかで、心の底から満足した表情で「あぁ…幸せだ…」と呟く。そう、つまりそういうことである。
*2: …というかそもそもレス夫婦なら妻に「ちょっと、何ひとりで興奮してるの?私明日朝早いのよ、また今度にしてくれる?」とか言われ、一蹴されそう…。うぅ、妄想しようとも邪魔をしてくる悲しき現実…。
*3: Tree Hugger。木に抱きつくほど自然を愛している、極度の「自然保護」の思想を持っていたり活動している人たちをさす。
*4: 人生で初めて書いたエッセイがこのトピックについて(笑) 確か高校二、三年生だった気がする。
*5: さらに妄想を広げると、例えば努力したらしただけ自分の性器のバラエティが増やせる、とかだったらさらに面白そうw そうすれば、プレゼンで頑張ったら、円錐も立方体も、世にもレアな星型も手に入れることができ、それ相応にもっと人生を楽しむことができる!
*6: 実は、そもそもLGBTQはこの状態に近い。一般的な統計で性的マイノリティは7〜9%ほどとなってるので、その中でお互いを探さないといけないのが、すでに現実にある。なので、現存するLGBTQ用出会い系アプリ「Grinder」のように、「性器が立方体ワールド」でも、結局アプリやサービスがうまれそう。というか、究極的にはフェチズムもこの状態に似ており、あまり詳しくは触れないが(てか触れたくないが)「ズーフィリア」とか「ショタコン」とか一つとっても、それは性器が星型だったりダイヤ型だったりと似たような状態なのかもしれない。もはや何言ってるんだ俺は。
**中川龍太郎監督とアメリカで映画を撮る下準備として、過去の名作から最近の珍作まで、映画を100本見るというプロジェクト。ちなみにこれが始まったことにより、「白黒人間論」の冒頭部分が無に帰った(笑)