今でこそ、多少情緒不安定やヒステリック気味な人間を表すライトな使い方をされるようになった「サイコパス」という言葉だが(例:「てか、限定フィギュア手に入らなかっただけであのヒステリーって、あいつまじでサイコパスじゃね?」CV:お好きなギャルボイス声優)、おそらく「サイコパス」という概念が若者の意識をもっとも風靡していたのは、「サイコパステスト」*1が流行っていたころではないだろうか。他者との関わり方がよくわからない、いわゆるただのコミュ障や社会不適合者と違い、他者に害を与えること自体そもそも何が悪いのかがわからないサイコパスは、想像の通り恐ろしい存在であり、社会的に取り締まる必要性は誰の目にも明らかである。同時に、以前から「普通じゃない」(そもそも「普通」とはなんぞや?の議論は一回無視する)、いわゆる「アウトサイダー」に親近感を持ち、彼ら彼女らはどういう考えを持ってるのか、なぜそのような思考や行動に出てしまうのかについて強い興味を持っていた私コミンズ・リオは*2、このプチ・サイコパスブームに乗っかり、色々と調べたり見ていたりした。そしてある日、実に面白い映像にたどり着いた。
それは、「ストーリー・オブ・ゴッド WITH モーガン・フリーマン」という冠を持つ、ナショナル・ジオグラフィック発のドキュメンタリーシリーズで、宗教を根本テーマに、モーガン・フリーマンがエジプトからイスラエル、インドから中国、そしてアメリカの隅々までと世界中を駆け巡り、各宗教の研究者や有識者、僧侶や牧師たちに、「神とは?」「正義とは?」「悪とは?」「救世主とは?」と色々と質問していく内容である。正直どのエピソードも面白かったのだが、やはり一番印象に残っているのは「悪とは?」のエピソードの中に登場した、モーガン・フリーマンがある終身刑の服役者の話を聞いた時のこと。モーガン・フリーマンに付き添っていた脳科学者は、連続的に重犯罪を犯してきた人間を専門に脳の研究してきた人物らしく、彼曰く、「長年の研究の中でもかなり異質」と表したそのインタビュー対象の男性は、30代後半から40代前半ぐらいに見られ(顔は映されていなかった)、強姦罪(30件弱)と殺人罪(数件)で終身刑を課されていた、文字通りのサイコパスだった*3。「初めて犯した犯罪は?」(答:10代半ばの頃、ガソリンスタンドで女性からバッグを奪って逃げた)や、「罪の意識はないのか?」(答:一度も感じたことがない)という質問が繰り広げられる中、モーガンの最後の質問に対する彼の答えが僕の脳天を揺らした。インタビューも終わった帰り際、真剣さと意地悪さが入り混じったあのモーガン・フリーマン独特の表情で、モーガンはこう質問した:「もし、僕がなんらかの権力を駆使して君をここから自由にできるとしたら、君は自由になりたい?」それに対して服役者の彼はこう答えた:「ここは恐ろしく退屈だから自由になりたい気持ちもあるけど、どうせ自由になっても僕は同じ行動を繰り返すだけだから、意味がない。君たちみたいに、他の人間と『普通に共感』することが僕にはできないんだ。だから何回でも、君たちがいう『犯罪』を繰り返す。『僕がいない外の世界』のほうが絶対に平和だから、僕は大人しくここにいるよ。」
この答えは、今でも鮮明に覚えている人生トップレベルの衝撃だったが、それにはいくつか理由がある。まずはじめに、自分の中で以前からあった「サイコパスと猟奇的殺人鬼の違い」が明確になったからだ。どちらも犯罪者で、身体的にもしくは精神的に苦しめられる被害者が出るので、よくこの二つは混合されるのだが、実は根本の部分ではかなり違う。猟奇的殺人鬼は、快楽のために人を襲うのである。自分がなす行為で他者が苦しみや痛みを感じることをわかっており、それに興奮するから実行する。そこには明らかな「悪意」があるので、そのまんま最低最悪の人間なのだが、実はまだ動機わかりやすい分、普通の人間でも共感はできなくてもある意味理解はできる。サイコパスはまた違う。そもそも他の人間が苦しんだり痛みを感じたりするのを「わかっていない」のである。もしくは、頭では理解していても、心ではわかっていない、要するに共感できていないのだ。なので、別に快楽のためじゃなくとも他人を傷つける。モーガン・フリーマンのインタビュー対象の彼の話を聞いていると、まるで日常的な行動として強奪や強姦を話している。「お腹すいたしお金ないし、そこに誰かいるからとりあえず財布奪おう。しかもよく見たら綺麗な女性だしムラムラもするし、襲おう」ぐらいの感覚。突出した「悪意」があるわけではなく、単純に人間とATMとTENGAの区別がついていない…「こちらのほうが全然猟奇的殺人鬼より恐ろしいじゃないか」とその時直感的に思った。同時に、フィクションに出てくる多くの猟奇的殺人鬼のキャラクターは、「アメリカン・サイコ」のパトリック・ベイトマン然り、「ジョジョの奇妙な冒険4部 ダイヤモンドは砕けない」の吉良吉影然り、表面上は大変まともで社会に適合している人物であり、裏の顔が犯罪者というものが多い。というか、人格ウラオモテ殺人鬼文学の元祖のひとつである「ジキル博士とハイド氏」こそがこのモデルである。これに対して、サイコパスは最初から社会的に異質である。裏の顔なぞ当初から存在せず、表の顔を隠す隠さない以前の問題を抱えており、その表の顔がそもそも社会や他者との共感ができていないといういところにある。
実はこの「共感」という部分はかなり重要らしく、前述の脳科学者も、インタビュー対象の服役者の異質さはその共感能力の完全なる欠如、と言っていた。「他者の気持ちを考える、共感すると脳から流れる電気信号によって画面が光る実験を行った際、この男性は皆無と言っていいほど光らなかった。多くの連続殺人犯は一般人より光る量が少ないものの、ここまで光らない人は初めて見た」とのことだった。そして、なぜか、私コミンズ・リオ、この話に大変納得してしまい、同時に何か腑に落ちたように感じた。
もちろん、インタビュー対象の服役者に共感はしているわけではない。私コミンズ・リオ、お金欲しさに他人から物を奪ったこともなければ、性欲を抑えられなくなり女性を襲ったことなどない。そんなことしていたらこんな文章なぞ書いておらず、今頃どこかのブタ箱だ。ただ、自分でも驚くほどに、この「共感」の部分は納得してしまった。自分自身、日常的には仕事以外ではほとんど他人と接しない。大都会東京にいながら、周りに何千何万もの人々が毎日過ぎ去っていくのに、じゃあ1日で接する人間はレストランの店員とコンビニのレジ打ちだけ、なんてことはザラだ。社交的な人だったら、似たような状況でも積極的に友達に会ったりするのだろうが、基本的には孤独が好きで、「独り」を好んで生きているので、必然的に「他者との共感」は薄れていく。そしてその果てにあるのは、そもそも人間は何で喜んだり、繋がってたり、幸福を感じたりするのかがわからなくなる(そしてそもそも興味すら持たなくなる)状態が待っている。
ドキュメンタリーを見終えて、上記の諸々を考えていた時に、「僕のこの状態はポジティブなサイコパスなのでは?」と思った。一般的なサイコパスはいわゆるネガティブなサイコパスで、人が傷ついたり痛みを感じる、「ネガティブ」な感覚を覚えることに対する共感性に欠けている。しかしポジティブ・サイコパスは、苦しみや痛みには共感できるが、逆に何が「ポジティブ」な感覚に繋がるかの共感性に欠けている。こう考え始めたら、色々と自分の中でまとまり始めた。本来は個別のエッセイを書こうかと思ったいくつかのプチテーマも、全部この「ポジティブ・サイコパス」の文脈に収まるではないか、と。例えば「お土産」や「贈り物」文化。日本文化の礼儀正しさや相手への思いやりが感じられる伝統的かつ一つの産業として地方を支えている文化であり、その役割は大変重要だと思うが、正直、個人的には一度も嬉しかったことはない。むしろ、お土産や贈り物をもらったのに同等のものを返さないのは社会人としてどうか、という心底めんどくさい暗黙ルールが加わり(私コミンズ・リオ、これを「善意のハムラビ法」と呼んでいる)、煩わしいことのほうが多い。この話を以前なんらかの飲み会で話した時、周囲(主に女性陣)から、今思えばそれこそまるでサイコパスを見る目で引かれたのを覚えている。「送別会」も同じ感情だ。時が20世紀前半以前、もしくは違う銀河系にでもいくならまだしも、今の時代、東京本社から大阪支社に異動したぐらいでなぜ送別会なぞやるのか。本当に会いたければいつでも会える距離ではないか。日本から地球の丸々裏側に位置するブラジルですら頑張れば24時間で帰ってこれるのだ。それに加え、今はSNSのおかげで常にいつでも連絡が取れるし、スカイプやzoomを使えばそのご尊顔すら伺える。どうせ数ヶ月先のゴールデンウィークか正月とかに帰ってきてまた会うのに、なんのための送別会だ。
「プレゼントをもらったら単純に嬉しいじゃない!相手が自分のことわざわざ考えてくれたってことでしょ?」や「送別会も確かに飲む言い訳っぽく聞こえるけどさ、普段集まらないメンバー含めみんなで集まる理由にもなるし、なんだかんだ送別されるほうが嬉しいしさ!」という、もっともらしい反論が聞こえてくる。でも、だからこそポジティブ・サイコパスなのだ。そんなこと百も承知だ。頭では理解できている。ただ、全く共感できない。服役者が「強姦や殺人はよくないこと」と頭では理解していたけど共感できなかった状態と同じだ。そして共感できないからこそ日常的には意識にはなく、日常的に意識にはないからこそ、よく忘れてしまう。そして忘れるたびに、「社会の当たり前」から離れていき、どんどん「ポジ・サイコ」のスパイラルを落ちていくのだ。
まだ半信半疑、というかそれこそ今回の文章に全く「共感」できない読者も多いと思うが*4、エッセイも終盤だし、「ポジティブ・サイコパス協会」の設立を予定においてます、という意思表示でまとめたいと思う。なんでもかんでも病名をつけてしまう現代医学会の悪しき習慣はどちらかというと反対派だが、こうでもしなければ一般的に理解はしれもらえないだろう。初代会長は私コミンズ・リオが担おう。なので、ちょっとでも「僕・私、当てはまるかも?」と思うかた、ポジサイコ教会まで一報を待ってます!*5
*1: サイコパステストを知らない人はぜひググって見てください。なお、診断後の心理状態や胸中に関して責任は負いません。
*2: 似た感覚でカルト宗教もすごく好きだ。また、「一見ユートピア社会、実態はディストピア社会」系の小説やフィクションも大好きだ。
*3: なお、ドキュメンタリーの都合上、おそらく侮蔑となる「サイコパス」という言葉は使えなかったので、「Pure Evil = 悪の権化」みたいなニュアンスだった気がする。正直、それもどうかと思うが(笑)
*4: 「サプライズ」が一番わかりやすい例。サプライズ嬉しい!とか思ってるのはごく一部だろ!
*5: 実際の一般的サイコパス(ネガティブ)同様、ポジサイコも男が多いと思う。(ジェンダーステレオタイプだとは承知の上で書くが)女性はなんだかんだ共感ベースの生き物だしね。
※最後に、文章中には出せなかったのでこちらで。「精神病質」(サイコパスの日本語訳)については、『広辞苑』では、「性格の異常性のために自分で悩んだり、社会を困らせたりするような性格。性格障害・人格障害にほぼ同じ。」と定義されており、『日本国語大辞典』では、精神病質を「生まれつきの異常人格。社会および個人にとって不都合な性格をもつ。」と定義している。