大学三年生ぐらいの頃だったか、「俺は将来、いつか国を作りたい…いや、絶対に建国してやる!」と、軽率かつ無謀にも意気揚々と妄想をしていた時期があった。しかし当然だが、「国を作りたい!」と思っていたとしても、店を開くことや起業することとはわけが違う。何をどう準備すればいいのかもわからない。そもそも、地球上にある土地という土地がほぼ全てどこかの国家によって管理されている今の世の中、「国」なんて本当に作れるのか?という根本的問題に早期段階でぶち当たっていた(シーランド公国のようなことをやりたいわけではないので。あれはギャグとしては面白いと思うが*1)。なので、とりあえず「国」についての知識を増やそうと思い、様々な書籍を手に取り、そのうちの一冊、タイトルがそのまんまと言うこともあり、プラトンの「国家」を読み始めた。
結果として、「国家」を読むことによって、国づくりについてのノウハウがたまることはなかった。しかし、代わりに、俗に「哲学の祖」と言われているかのプラトンの名著を読むことによって、それこそ哲学の根本に触れる機会を得た。プラトンの「国家」の内容は、プラトンの師・ソクラテスが、様々な議題に置いて周りにいる人物と「対話」をしている形式を取っている。正義や教育、芸術についての考察から成り立ち、読んでいて全てを理解できなくても、ソクラテスの考えや彼なりの答えが、その後の哲学に大きな影響を与えた…というかむしろ基礎となった、ということは自分みたいな素人でも読んでいたわかった。また重いテーマばがりではなく軽いトピックスもあり、中でも「何年も前から老人は『これだから若い奴らは…わしらの時代はこうだった〜』などと言っている」とソクラテスが話し始めた時には脳裏に稲妻が走ったかのような衝撃を受けた。なん…だと…!?2500年前に生存していた哲学の祖の師匠がこんな誰もが人生で一度や二度は耳にして「うるせーよ、老害が!」と思ったようなことを言ってるなんて…人類はなんて進歩してないんだ!*2
同時期だったかちょっと後だったか、ある雑誌か新聞の記事で読んだことが、戦後現れた「三種の神器」についてだった。そう、かの有名な「テレビ」・「冷蔵庫」・「洗濯機」…これら電化製品たちがブルジョワに限らず一般市民の手に届く価格帯になったことにより、人々の生活を大きく変えた。テレビは新しい形の娯楽(と情報のインプットソース)を与え、冷蔵庫は保存方法の進化と共に食物の長持ちによる経済援助や腐りにくくなることによる食中毒などのリスクも抑え、洗濯機は今まで長時間かかっていた日常的な洗濯を機械に任せることにより主婦にも隙間時間を与えた。ふむふむ、なるほど…って、ちょっと待てよ?「オイシすぎる話」・「説明不足の内容」・「思いこみによる誘導」などに対してむしろ人生損をしてきたのでは、と思われるほど疑心暗鬼な私コミンズ・リオ、最後の「洗濯機」はちょっと腑に落ちなかった。いや、確かに洗濯機の登場により、手洗いに比べて時間は削減できたと思うが、その余った時間は何に使われたのだろうか?今までやりたくてもできなかった、勉学に励むことや他の家事に当てられたのだろうか?洗濯機導入により生まれた隙間時間は、人生をより豊かにする有意義なものに使われたのだろうか?…否!!!調べた所によると、その余った時間の多くは、洗濯機と同時に我が家にやってきたテレビを見ることに使われたらしい。そう、「クレヨンしんちゃん」に登場する野原みさえそのものである。もちろん家事や子供の送り迎えをやっていることも多いが、テレビの前で横になりながら、せんべい片手にワイドショーをギャハハと見ている時間も圧倒的に増えたのである。
簡潔にまとめると、そのあとは絶望的な気持ちに陥った数ヶ月だった。私コミンズ・リオ、大げさかもしれないが(というが普通に大げさだが)、人類に対する希望を失くしていた。世間では2500年前と同じようなことがグダグダと話されており、なんなら2000年前に作られた宗教とその分派を世の中の過半数の人間が日常的な行動や考えの中枢に置き生活をしている。「利便性」や「効率性」を求めテクノロジーがどんどん発展しても、上記にある通り、「楽したい」「怠けたい」という人間にある根源部分は変わらないのだとしたら、そもそも「発展」はなんのためにあるのだ?人類の存在理由そのものを考え直さなくてはと、常闇で底が見えない巨大なアビスの淵に立って、永遠に下を見下ろしている気持ちになった。
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数年が経ち、たまたまブルームバーグのYouTubeチャンネルに上がっている、カーライル・グループの創設者の1人、デイビッド・ルーベンシュタインが主催するインタビューシリーズを見漁っていた。孫正義、フィル・ナイト、マイク・シェシェフスキーと続けて見ていた所、次に現れたのがビル・ゲイツだった。ビルの動画を見ていて感じたことは(そして彼のインタビューを以前何度か本や雑誌を過去に読んで、さらに後にネットフリックスのドキュメンタリーを見て再確認させられたのは)彼のテクノロジーに対する圧倒的なポジティブ性。考えてみれば当然なことかもしれない。ビル・ゲイツからしてみれば、ひとえテクノロジーのおかげで、自閉症気味のパソコンオタクが世界で一番の金持ちになったのだから。ただ、最近ではインターネットをはじめ、テクノロジー全般の、有害性とは言わないまでも危険性を語ることが世間のスタンダードとなってきている中、あそこまで自信を持って「世界の未来を救うのはテクノロジーだ!」と言い切れるのはすごいと思った。
ジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」、ハンス・ローリングの「ファクトフルネス」、ユヴァル・ノア・ハラリの「サピエンス全史」と「ホモ・デウス」など、世間で大ベストセラーとなった文化人類学や近代社会史の本を読んでみると、いかに科学の力で人間は現代の生活を手に入れてきたかがわかる。人類繁栄の一番の敵であった飢餓と病の二つは、科学の力でほぼ撲滅させられている。地球上で最も貧しい地域は、数百年前の世界と出生率と平均寿命がほとんど変わらないが、子供が5才以降まで生き延びる施策(予防接種の導入、抗生物質や医療品の投入、井戸に落ちないや川で溺れないなどのインフラの強化、など)を取ることにより今度は一家庭あたりの子供の数は2~3人にまで減らすことができ(避妊用具の配布、妊娠や性病に関する教育、などを通して)、子どもの数が減るだけで一気に生活は先進国に近づいていく、という研究データまで出ている*3。なので確かに、マクロ的に見ると、科学は人類を大きく発展させている。平均80才以上まで生きることができ、それまでは死に直結していた病気や怪我から回復することも可能になり、世界中にいる人と瞬時に交流することができ、様々な交通手段で世界中に直接自分の足でまわれるようになり、美しい芸術に心を踊らせたり、美味しい食べ物に感動する「余裕」も与えられるようになった。こりゃあビルじゃなくても思う、テクノロジー万歳!
しかし、だ。「不幸は長期間(線)で感じることができるのに対して、幸福は瞬間的(点)でしか感じることができない」という研究データについて今回は詳しく触れないが*4(また別のエッセイはこればメインテーマの一つとなる)、科学とテクノロジーが与えてくれたものは、上記で行くと、どうしても線を伸ばしただけで、点を強めたとは思えない。むしろ、点は弱くなっている気がする。勝手に「人類退化テクノロジー」と名称づけているが、例えば一つ例をとると「ウォッシュレット」だ。TOTOと言う会社には何も恨みはないが(むしろ日々感謝しているぐらい)、ウォッシュレットのせいで人として弱体化した日本人に何人も出会っている。俗に「ウォッシュレット以外でトイレにいけない」人たちのことだ。テレビ局時代の先輩のひとりに至っては、このせいで海外はハワイにしかいけなかった。これぞ退化、弱体化そのものではないのか。臀部を温め、アヌスに優しい噴水を当てられないと排泄行為すらできない奴らが現代の大和男子…どこかで西郷隆盛と近藤勇が酒を交わしながら泣いているはず。同じ理由で、私コミンズ・リオ、良質なベッドを購入できずにいるのだ。30万円とか出して、「生きている中で最も重要な回復要素・『睡眠』の質を向上させる」マットレスを購入し慣れ始めた日には、もう今の布団では寝られなくなるであろう。昔はどこでも寝れることが数少ない自慢できる能力の一つだったのに、それが奪われる。これは間違いなく退化ではないか?料理なんて一切できなくてもスーパーで出来合いのお惣菜を買ってくれば家族みなお腹いっぱいになるし、写真の知識なんて一つなくてもエモく映えるフィルターをかければ「いいね」はたくさんつくし、世の中のほとんどのものを使用するにあたって、その構造や歴史などを知る必要性は全くない。リモコンのボタンを押せばテレビはつくのだ。スマホをケーブルに繋げると充電されるのだ。「楽したい」と「怠けたい」が「利便性」と「効率性」を回し、そこには永久機関が作り上げられる。その先にいる人類は、「ドラえもん」に出てくる未来人化したパパ然り、映画「ウォーリー」に出てきた宇宙船に住んでいる人たち然り、基本的には全く同じ姿が想像されている*5。
数々の漫画賞を総なめした野田サトルの「ゴールデンカムイ 」にはたくさんの素晴らしい点があるのだが、やはり一番はアイヌ文化の紹介にあるだろう。ヒロインであるアイヌの少女・アシリパは、日露戦争帰りの元大日本帝国軍人の主人公・杉本に、若干10代前半ながら、数々のアイヌの伝統的知識と実践を披露していく。樺の木の皮を削ってよく燃える松明にする方法、野生動物を捕まえる数々の仕掛け、どの季節にどの野菜が食べられるか、毒にかかった時の治療法など、読者として読んでいて圧倒されるほどだ。そして言うまでもなく、アシリパのこれらの知識は、100年後の現代に置いて、全て、まったくと言っていいほど役に立たない。アシリパは漢字も読めなければ小学校レベルの算数すらもできないであろう。なのに、深い雪の上を歩くために即席で雪駄を作れるアシリパと、雪の日のために買ったブーツがなんの素材でできているかもどういった工程で作られてるかも知らない我々現代人を比べると、どうしても前者に対して尊敬の念を覚えてしまう自分がいる。
結局まとめると、「お前もただの懐古主義者かよ!黙って2500年前に戻ってソクラテスとイチャイチャでもしてろよ、腐れ老害が!」と罵られるだけであろう内容なのだが、楽しんで考えるきっかけになっていただけたのなら何より。最後にこれだけは言いたい…「チタタプ!チタタプ!」からの「ヒンナヒンナ」!!*6
*注記*
*1: シーランド公国!この発想力だけは認めるしかない!(笑)
*2: あまりにも衝撃を受けたので、数年後、わざわざギリシャはアテネの博物館を巡り、ソクラテスの石像をたくさん探したほど。
*3: ファクトフルネスから引用。ページを探すのは手間なのでいつかまた…。
*4: 簡潔に述べると、南アフリカのケープタウン大学で哲学を教えるベナタール教授が、この点と線の理論を元に「人類は子孫をもう残さないべき」という考えを提唱している。英語の記事となるが、こちら大変面白いのでお時間ある方はぜひ!
*5: ぜひググってみてください。悲しい気持ちになるよ。
*6:ぜひググって見てください。ハッピーな気持ちになれるよ!
*A: 実はのちに知ったのだが、ビル&メリンダゲイツ財団は現在、水道がない場所でも稼働する水洗トイレの開発に巨額なお金を投資している…!本エッセイのタイトルを考えた後に知った事実だが、こういう偶然があるから人生って面白いよねw