LEO KOMINZ
願いは叶ったけどもう遅かった問題
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おそらくここまでくると株式会社明治のマーケティング力と流通力を褒めるべきなのだが、「きのこの山」派か「たけのこの里」派かどうかの論議が老若男女関わらず日本中津々浦々で行われるという事実は単純に考えてすごいことだ。大学サークルの溜まり場からドラマのロケ現場の待合室まで、小学生のお別れ会から登頂へ向かうハイキングトレールの休憩所まで、コンビニやスーパーで購入できる、きのこ・たけのこどちらも入っているファミリーパックなどが登場した際、必ず話題に上がるのが「え、ちなみに〇〇さんはどっち派?」の議論だ。読者の皆さんも、この文章を読んでいるこの瞬間に「そういえば、私はどっちかなぁ」と考えているかもしれないが、今回、私コミンズ・リオが触れたいのは、きのこのクラッカー部分の食感やたけのこの「こっちのがきのこよりチョコの量、多いんじゃない?」という錯覚などについてではなく、実は、この二つのお菓子、コンビニで買うと200円以上もする、ということについて。普段からお菓子を食べている人間からしてみれば「え、そんなの当然じゃない?」と思うかもしれないが、改めてよく考えてみて欲しい。「きのこの山」や「たけのこの里」というネーミングがついている時点でこれらのお菓子の対象は小学生ぐらいだと考えられ、事実、上記のどっち派論争において「どっちも食べたことないのでわかりません」という答えがまず誰からも出ないほど、日本国民誰もが子どもの頃には食べているお菓子であるとは言えるだろう*1。ただ、小学生のお小遣い事情をみて見ると、金融広報中央委員会の2015年の報告によると、そもそもお小遣いをもらっている小学生は7割ほどで、その金額は平気月額1000円未満とのこと。ということは、税金を含めるとなると、小学生は1ヶ月にきのこ・たけのこ、どちらも5つも買えないということになる。また、貴重なお小遣いを、小学生がきのこ・たけのこに全て費やしていると考えるのもおかしい。となると、誰が買っているのか。答えは明確だ。親が買っているのである。

お菓子の基本的な値段設定が大人に向けている、と気付いた時の衝撃は、今でも覚えている。お菓子は子供が食べるもの、そして食べたいものなのに、それらを買っているのは大人たち。おそらくほとんどの親は、子供に預けるお小遣いとは別に、日常的に多少はお菓子を買い、それらを限度付きで子供に与えている。おそらくというか、確か自分の家でもそうだったはずだ。駄菓子などを除くと*2、コンビニなどで売られているお菓子の値段設定は、それを食べたい子供には高額すぎて、逆にそれらを買う大人にして見ればなんともない値段となっている。これが「年齢と嗜好のズレ」の発見になり、またそれに由来するさまざ事態に気づき始めるきっかけとなった。

お菓子が嫌いな子供はまず、ほとんどいない。目の前にお菓子を出され「あ、大丈夫です。自分、あまり甘いものとか食べないので」とか言っている幼児〜小学生などみたことがない(というか見たくない!笑)。むしろ友達の子ども達を見る限り、お菓子はハピネスの根元の一つであり、なんなら不機嫌な時には最悪お菓子を与えれば機嫌を取れるほど。なので、例えばアメリカで生まれ育った自分としては、トリック・オア・トリートの文化に則り、近所中の大人からたらふくのお菓子をもらえるハロウィンは夢のようなお祭りだった。特に家に帰宅後、衣装を脱ぐことも忘れ部屋中にもらったお菓子を散りばめ、何がいくつかあるかを整理し*3、お菓子に囲まれる幸福感にいつまでも浸り続けたいと思ったことは今でも覚えている。こんな幸せな気持ちになれるなら、大人になったら毎日お菓子を買いまくろう!お菓子を買いまくってそれに囲まれた幸福な日々を送ろう!…確かそう思っていはずだ。また、その考えを助長するファンタジーがそこら中に広がっており、グリム童話「ヘンゼルとグレーテル」のお菓子の家があれば、ボードゲーム「CANDYLAND」もあり、ロアルド・ダールの小説(そしてティム・バートンの映画)「チャーリーのチョコレート工場」があれば、漫画ワンピースに出てくるビッグマムの「万国(トットランド)」もあるように、お菓子の世界は子供にとって究極の夢世界なのだ*4。そして、大人になれば容易くそれが手に入るのだ!

が、実際はどうだろうか。この文章を読んでいる読者の皆様の周りに、お菓子を大量に買い込んで、それに囲まれた生活を送り、その幸せを噛み締めている大人はいるだろうか。おそらくいないであろう。「チョコ大好き!」って言いながら、日常的にランチ後に社内購買でチョコ菓子を買っているOLはいるかもしれない。「スイーツ大好き!」って言いながら、限定品やちょっと高価なケーキ、マカロン、フラペチーノ、マロングラッセ、エッグタルト、芋羊羹、バクラヴァ(列挙していけばキリないのでこれぐらいにしておくが)などを休日にわざわざ並んでまで食べに行くOL、スイーツ男子、プロレスラーや元横綱などはいるかもしれない。しかし、例えばお家にお邪魔して、ドアを開けた瞬間にその家の内装が「おかしのまちおか」みたいな友人がいたとしたら、それは…それは流石にちょっと異常、ということになってしまう(というか、真っ先に健康を心配してしまう!)*5。小学生の頃に家が「おかしのまちおか」だった同級生がいたら、その子は「クラスの神」の扱いを受けていたであろうに。

ここが人間の本当に不思議な点だと思っている。この、年齢と、その年齢に対する嗜好・憧憬の先にある望みが叶う瞬間のズレ。なんでこんなことが起きなくちゃいけないんだ。何も、これはお菓子がいくらでも買える年齢になったのにも関わらず、もう別に大量にお菓子を買うことに興味がない、というだけの話ではない。自分の場合だと仕事とも連動している。高校生の頃、テレビを見ていたり、音楽を聞いていたりして、「いつか絶対この人と仕事してみたい!」と思っていた人と、ではいざ仕事ができる機会ができたとしても、正直そこにもう憧れはない。大学生の時には毎月必ず購読していた雑誌に、「いつかこれに有識者として取り上げられるぞ!」と当時は思っていたのにも関わらず、いざその雑誌の編集部の人間と知り合いになった時には、もはやその雑誌を読んですらいない。なぜなのか。当時のパッションや憧れをそのまま10年引きずり続けられたのなら、随所随所で幸福度が跳ね上がってるはずなのだが、なぜ人生とはこのようにズラしてくるのだろうか。

大人になると、どうしても現実が目に入るからだろうか。お菓子が与えてくれる、糖分が脳に直撃して発せられるドーパミンの幸福感のリミットとその反動を知ってしまったからだろうか(そもそも大人になって大量にお菓子を食べたらその分太る、という事実もある)。憧れていた芸能人やミュージシャンも、いざ近くにいると普通の人間だと気づき、なんなら別に共通の価値観を持っているわけでもないと知ってしまうからだろうか。テレビや雑誌や、全般的にメディアというもの自体がいかに恣意的に作られ、マスに届けられ、それゆえ「何が重要か」「誰がすごいか」のからくりの裏を身を以て体験してしまったからだろうか。英語には “Ignorance is bliss” (直訳「無知は至福である」、日本の諺だと「知らぬが仏」)という言い回しがあるが、これは単純にその瞬間の出来事(例えば旦那としては奥さんが浮気をしていることを知らない方がハッピー)だけではなく、長期スパンに置ける、願いや望みにも掛かっているとは、さすがに思ってもいなかった。ただ、ここにも人生の矛盾は孕んでおり、多くの場合、何か目標や夢や願いや望みがあった場合、それに向かって深く追求して行かなくてはいけない。そして深く追求すればするほど、その周りに存在する現実を知ることになり*6、現実を知ると、今回のテーマである、「願いは叶ったけどもう遅かった。喜びはない」という状態に陥りやすくなる。

悲しい話だ。本テーマに対する、「じゃあそもそも期待値をそこまであげなければいいじゃん」などと言った実につまらない対策以外やりようはあるのだろうか。簡単に答えると、まず、そもそもズレが起きなかった、という例はある。例えば、子供の頃から昆虫が大好きで、そのパッションは高校、大学までと変わらず、最終的に昆虫学者になった、と言ったケースだ。大学の先生や研究者などにはこう言った人は多く、(日本文学と伝統芸能の大学教授である自分の父親を見てても思うが)概ねみんなハッピーそうだ。そしてもちろん、多くの子供の将来の夢であり、「リーグ優勝」や「オリンピック金メダル」などのゴールが一貫して明確なプロアスリートも似た状況にはいる。学者にせよスポーツ選手にせよ、小学生の時から全く変わらず、とまでは行かなくとも、思春期から大人になるまでのどこかのタイミングで見つけた自分が情熱を持てる何かをライフワークに変えられた幸運な人たち、という分類にはなるのだろう。

しかし、ほとんどの人は違う。子供の頃に描いた大人像になっている人間はごく一部で、ほとんどの人は、様々な理由のもと、現在の仕事やライフワークに就いている。この圧倒的多数の人間が、年齢と嗜好に置けるズレのせいで幸福感を喪失しているとは思いたくない。なので、もしかすると、あれかも知れない。「期待値を下げる」のではなく、「小さいことでも喜べる」が大人なのかもしれない。お菓子をたくさん食べて圧倒的幸福はもう感じないかも知れないが、それでも今でもちょっと疲れた時に口中に広がるチョコレートの甘みは、小さなハピネスを与えてくれる。そして小さなハピネスを積み重ねていって、大人は日々を乗り越えているのであろう。

だからか。一時期、気持ち的にもかなりダウンだった時期、当時手伝っていた会社の近所にあったナチュラルローソンに置いてあった「大人のきのこの山」と、豆から挽いて入れた自家製コーヒーが一日のハピネスだった。そして、要するに何が言いたいかってことは、私コミンズ・リオ、圧倒的かつ絶大的に「きのこの山」派だということ!(笑)

*注記's*

*1:「食べたことがないからわからない」は出会ったことないが、「 別にどっちも同じぐらい普通」という意見は出たことあるw

*2: 改めて考えてみると、おそらく駄菓子というものの存在意義自体が今回のテーマの根本部分に触れているのである。子どもの金額感に合わせた、子どもが好きなだけ買えるお菓子。そう考えると、幼少から「経済」を学ぶという意味を含めても、駄菓子屋がなくなってる事実は悲しい…。

*3: 余談だが、無料で与えるお菓子のクオリティでどこの家がどれだけ太っ腹か≒経済状況が知れちゃうのは、大人になった今だからわかるトリックオアトリートの闇部分。子供にとってはキングサイズをくれる家はもはや神的存在!笑

*4: そしてストーリーというものの構成上、ほぼ確実に大抵なんらか悪夢にも繋がる世界でもあるw

*5:チョコレートをめっちゃ食べたがってる大人の女性たちも結局罪悪感と戦っている部分もあるので、子どもの頃のような幸せは果たしてあるのか…。

*6: 「僕は絶対に周りにいる腐敗した政治家みたいにはならない!」と言っている新米議員が、十数年後、嫌厭してた政治家たちそっくりになっていることがいい例。

text:
コミンズ リオ
illustration:
orikata
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18-04-02