【注:この文章が書かれた2017年から変化があり、最近は今後映画の仕事に携わる機会が増えるということがあり、たくさんの映画を見ています。映画を全く見ない生活からほぼ毎日一本みる生活は、絶食状態のファスティングからいきなり毎日主食がラーメン二郎みたいな変化で、体がついてこれない日々もありました。一応こちら念頭に置いて読み進めていただければと思います】
白黒人間とグレースケール人間についての考察を進めるためには、まず、自分が高校生の時に遡らなければいけない。私、コミンズ・リオのことを知る人間には既知の事実かもしれないが、そう、コミンズは映画を見ない。多趣味なイメージをよくもたれるので驚かれることも多いが、そう、本当に全く見ないのだ。この事実を人に話すと大抵驚かられる後に、以下のようなやりとりが行われる:
友達:「最後に見た映画は?」
コミ:「映画館では…おそらくロード・オブ・ザ・リングかな」
友達:「え、10年以上前だよ…?」(軽く悲鳴をあげ、口を覆う)
これが基本的な流れだ。なので当然かもしれないが、今となっては映画館がどういった感じな場所だったのかあまり覚えておらず、ポップコーンの匂いとか予告が流れる間の本編への期待感とか、もはや遠い記憶の彼方のものとなっている*1。
さて、「最後に見た映画は?」の次によく聞かれる質問が「なんで映画を見ないの?」で、これもほぼ毎回聞かれる。質問者の不信感が伝わってくる、的確な質問だと思う。「映画を見るというのは、もはや人間の日常生活の一部となっている基本行動でしょ?デートの定番だし、空いている時間を有効にかつ有意義に埋められる方法だし、なにより映画は確立されたアートフォームの一種よ!それを行わないなんて、なにかおかしいわ!」こういった質問者の心情が伺える。そして実は、その質問に対しての答えももう用意されており、それは「僕は白黒人間だから」である。こう答えると、さらに困惑した表情が返ってくる。「白黒人間?どゆこと?」
映画を見るのをやめた頃の16~17才の自分は、当時激しい葛藤に追われていた。重度の中二病を患っていた事実も大きく絡むが、その時自分が抱えていた問題は「やばい、時間が足りない」というものだった。高校生なので、学校ぐらいしか生活において時間を取られる物はないのだが*2、この「時間が足りない」という感覚は一日の中というミクロな視点よりは、「やばい、(人間には全ての本と音楽と映画を、鑑賞し、嗜み、さらにそれについて考察する)時間が(一生には)足りない」という気持ち悪いほどマクロなものだった。そう、人生レベルでの悩みである*3。根本にあった感情は実に刹那的な物で、「こんなに面白い本や音楽や映画が世の中にあるのに、それを全部消費できないなんて、なんて辛いんだ」というもの。そして、それについて出した解決案が「なら、常に、できるだけ新しいものを消費していこう。全部消費はできなくても、自分が死ぬ瞬間に『うん、自分が出来る限りは消費したぜ』って言えるようになろう」というもの。今振り返ってみても、実に極端な考え方だ。そしてとても自分らしい。
そこで、映画を見なくなった。なぜか?それは、心の天秤に「本」「音楽」「映画」を置いたところ、バランスが取れていなかったことに気づいたからだ。左から「大好き!」「大好き!」「うん、まあ、好きかな?」ぐらいのウェイトの違い。また、当時、時間が許す限り「できるだけ新しいものを消費していこう!」と新たに心に誓ったNEWコミンズ・リオは、ある事実に気づいてしまった。音楽は他のことをやりながらも聞ける(例えば、洗濯物を畳みながら。これは未だに行なっている楽しい音楽消費体験である)。最悪、本も音楽を聴きながら読める。しかし視覚と聴覚どちらも要する映画は自分の集中を100%必要とするではないか!!なのでそこで決まったも同然。さよなら、映画。さよなら手に汗握る展開と美しい女優たち。さよなら、塩気のムラが激しいポップコーンと予告を見ている間のドキドキ感。
映画を見ないという決断を下し、一定の時間が経ってから気づいたのが、自分がかなりの「白黒人間」であるということ。白黒人間とは、単純に物事を白か黒かで考える人間のこと。そして傾向としては、好きな物・興味のある物はとことん追求し、嫌いな物・興味のない物に対しては全くの無知であること。自分の場合、本(漫画や雑誌を含む)や音楽については詳しくなったが、当然映画の知識はほぼ皆無の状態になった。趣味や嗜好などに絡むと「オタク」vs「オールラウンダー」という似た見方もできるが、この「白黒人間」(そしてその対である「グレースケール人間」)はその他色々な部分で見られる。例の一つが「友人関係」だ。
友人関係に置いても自分は完全に白黒だ。「白」と「黒」しかいないのだから、いるのは「友達」と「友達でない人」の二種類のみ。そして、「友達」だと思う人にはなんでも話せる。それが幼馴染であれ、おととい飲み屋であったばかりの人であれ、関係ない。「友達」は「友達」だ。逆に言うと、「友達でない人」は、例えば会社の同僚で何年も付き合いがあったとしても、本当の意味で心を開くことはない。
会社に入ってびっくりしたのが、世の中には多く、友人関係においても「グレースケール人間」がいるということだった。「グレースケール人間」は白黒の逆で、白黒人間からみたら「友達」と「友達でない人」の線引きが極めて曖昧だ。まるでパーセンテージで分けるように、「20%心を開く相手」「50%心を開く相手」「このジャンルに置いては10%、こっちのジャンルに置いては60%心を相手」「誰と一緒にいるかによって、15%から80%心の開き具合を変える相手」など、実に様々なパターンを持っている。しかもそれを瞬時に見極めるのだから、本当にびっくりする。そして言うまでもないが、白黒人間の自分からしてみれば、全く理解ができない関係の作り方だ。
こうやって自分の中での「白黒人間」論が固まっていった。また、もちろん、森羅万象の陰陽を表す太極図が示すように、完全に「白」と「黒」に分けることは不可能であり、必ずしも白の中にどこか黒、黒の中にとこか白があるのはわかっているが*4、それでも傾向としてはやはり社会は「白黒人間」と「グレースケール人間」に分かれると思っていた。まるでAdobe Photoshopのバケツ機能とグラジエント機能のように、同じ箇所ではどちらかのアイコンしか選べないのだ。そう思っていた。
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2015年、”World in Twelve”で世界を周りながら気づいたのが、実はいかに自分が「グレーを好んでいたか」だった。それは「自分は白黒人間なんだ」とずっと唱えてきた身からしてみると不思議な感覚だったが、世界で様々な文化や考えに触れ、人々に会って話を聞くと、いかに「一つの答えなんてないんだ」ってことに気付かされた。また、それは地域や民族によって意見が対立するような世界情勢に直接関わることだけではなく、どの社会にでも身近にあるものにも当てはまった。例を挙げると「性」がある。
「性」とは元来、白黒がはっきり分かれているという認識が強いものだった。「女」と「男」、この二つだけ*5。しかし、時は21世紀、LGBTの活動も花が開き始め、ようやく一般的に「その二つ」だけではないという認識が出てきた。体と心は1パターンのみで繋がっているわけではなく、自分は男で男が好き(ゲイ)、自分は女で女が好き(レズビアン)、自分はどっちも好き(バイ)、自分は自分の肉体的性とは「反対」の性である(トランスジェンダー)が「LGBT」のアルファベットを形成するが、そこに止まるわけではない。「どの性も好きじゃない」という”asexual”(無性)もいれば、「自分の体は男だけど心は女、それでも女が好き」という外見上はストレートでも心はレズビアンなどもいれば、さらにはもっと一般的に、単純に女装が好きな男や、麻雀と相撲と麦焼酎が好きな女などもいるので(後者は「男」じゃなくて「おっさん」か笑)、もはや性を白か黒、ゼロか100には分けられない。自分自身、もしかしたら85%ぐらい男で15%ぐらい女かもしれないのだからだ。そして、それは素晴らしいことだと思っている。さよなら、白黒人間の自分。
また、極論が出る物に対して、白黒の意見を出している人たちに対する嫌悪感を覚えている自分もいた。2015年、世界を周っている時だけでも、いくらでもそういった事象はあった。公共空間での銃乱射事件が起きるたびに挙がるアメリカの銃規制論、ISISなどのテロリスト集団が行う犯行から繰り広げられる宗教の存在論、地中海で船が沈むたびに引き起こる難民論、「上記のような世界の現状を正当に報道しないマスゴミめ!」と罵るメディア論、挙げていけばキリがない。そして、SNSとインターネットメディアがそれまで以上の力を見せていた2015年、絶対的な意見と極論が一番注目される(そして一番重要であるヒット数に繋がる)という事実。もともと白黒に分かれやすい議題に、みな、「これこそが絶対」と、純白もしくは暗黒の意見をさらし続けている。愚の骨頂、阿鼻叫喚。おそらく「答え」というのは、いつもどこかグレーの部分にあるのに*6。
上記それぞれの議題について自分の意見を書こうとは思わないが、どれも、「そんなシンプルで白黒な意見では解決できないよ」とは言えると思っている。そして、ここで自己矛盾が出てくる。自称「白黒人間」の自分が「白黒」を否定してしまったら、果たして自分はまだ「白黒人間」なのだろうか?「失敗しようとして本当に失敗したら、それはむしろ成功したのでは?」の問いに似ているが、正直自分でもわからない。唯一わかるのは、極論が絡む、意見が白黒に分かれやすい事象(「性」や「宗教論」)では自分は極めてグレーで、極論が基本存在しないグレーな事象(「趣味」や「友達」)では自分は極めて白黒だということ。
え、これって一般の逆じゃん!ということは自分は「普通じゃない」ってこと!?実はそれが一番重要。中二病はまだまだ健在しているので!(笑)
*1:完全に余談だが、以前友達何人かが「映画泥棒」について話していた時に、「映画泥棒ってなに?」と聞いて、さらに驚かれたことがある。映画泥棒とは、予告の中に出てくる、「映画館での盗撮は犯罪です!」とコミカルに忠告してくれる頭がビデオカメラになっている男のことらしい。未だに見たことはない。
*2:こう書いているが、それは自分がそこまで真面目な生徒じゃなかったからであって、優等生の妹は学校、ダンスチーム、模擬国連、ピアノ、宿題などに一日を埋め尽くされ、文字通り本当に「(隙間)時間がない」高校生活を送っていた。こういった学生もアメリカにはたくさんいる。
*3:「人生レベルの葛藤を今抱えている自分、みんなと違うぜ」という気持ちももちろんあった。ザ・中二病。
*4:そう、だから実はのことをいうと、この10数年間の間で、飛行機の中で本を読み終え、やることが完全になくなった時、または彼女が見ているのを同じ部屋でなんとなく見てた時、などを例に、5~6本ぐらい映画は見ている。
*5:古代や中世の宗教(多神教)や社会を見てみると、意外と昔の人間のほうが性の多様性にオープンだった事実があるのがわかるが、今回使われる「元来」は、主に近代的な一般社会の考え。
*6: イギリスのブレグジットやアメリカのトランプ当選、ヨーロッパ諸国を覆っている極右思想(とそれらを提言する政党)への迎合、そしてこれらの動き全体を統括する、フェイクニュースの蔓延と目の間に提示された情報を「疑う」能力が欠如し全てを鵜呑みにする群衆など、恐ろしいことに、絶対性に取り憑かれた悪い意味の「白黒人間」が数多く生まれているのが2016年以降の世界の現状である。つらみ。