LEO KOMINZ
"多様な社会とは"|ザ・その時決める@トロント
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ーーTDOT vs ISS

トロント滞在中にあるジョークを思いついた。そのジョークは意外にもウケがよかったので、人に会う時によく使った。「トロントってどう?」と現地の人に聞かれると、こう答えるのである。「もしおれが誘拐されて、記憶を失って、目を覚ました場所がここだったら、僕はそれが2015年のトロントなのか、100年後の国際宇宙ステーションなのかわからないと思う!」日本語にすると意図が伝わりにくい文章だが(というか全然おもしろくない文章だが)、言いたいことはこれだ:これほど人種と国籍と価値観が同時に存在して、それが普通に成り立っている場所なんて、トロントか国際宇宙ステーションぐらいだよ!

トロントの多様性については二つブログで散々述べたが、やはり自分の中で最も印象に残ったテーマだったので、今回の「ザ・その時決める」も、多少違うアングルからではあるが、「多様な社会」というものについて触れようと思った。まず、ブログでも記載した「データ」の部分だが、トロントの多様性は本当に驚愕的なものである。(ソースはブログから)

①全住民の半分が移民
②自分のことを「カナダ人」だと思っている人間が全体の中で第3位。(1位は中国人、2位はイギリス人)
③肌感覚だが、カフェや地下鉄では、英語を聞くことより、英語以外の言語を聞くことが多い


ミクロ的な部分でいかに毎日が衝撃の連続だったかはブログをよんでいただければわかるのでこちらでは触れないが、ただそこで生活しているだけ、ただ生きているだけで「多様性」というものを直に感じられる都市がトロントなのである。

ーー人種のキルト

アメリカ人にこの話をすると、みな驚く。「え、トロントってそんなに多様な都市だったの?」と。これには仕方がない部分があり、アメリカ人は(特にリベラルよりの東と西海岸で育ったり滞在したりしている人間は)「アメリカこそ人種の多様性を証明する国」だと思っているからである。これは別に彼らが悪いとか無知とかいうわけではなく、正直自分もトロントに来るまではそう思っていた。そして、確かに、アメリカは多様性の国ではある。おそらく世界中のほとんどの国よりも。しかし、アメリカの多様性と、トロントで見た多様性には大きな違いがある。

日本の中学校に一年間通い、そこの社会の授業で学んだことは(=文部科学省が決めた、日本人の中学生が学ぶべきことは)、アメリカとは「人種のるつぼ」だということ。これはアメリカの学校教育でも教えられており、アメリカ人はアメリカのことを基本的にMelting Potと表す。これはアメリカ人なら誰でも認識していることだ。

トロント在住中に、あるアフリカ系カナダ人とインドネシア人のハーフの男性がパーティで教えてくれたこと。「アメリカは『るつぼ』だと言うだろう。それは本当に正しい。なぜなら、移民がアメリカに行くと、彼らは『アメリカ人』になることを強要されるからだ。英語を学べと言われ、アメリカのカルチャーに染まれと。るつぼの中にいろんな人種や国籍が投入されても、出てくるものはドロドロとなった『アメリカ人』なんだ。その反対がカナダ。カナダでは誰も『カナダ人になれ』なんて言わない。だれもカナダ人がなんなのかわからないからね。むしろ、みんなが自分の国の人らしくするのが、『カナダ人』らしくいることなのかもね」

この言葉には深く共感した。トロントの道を歩いていたり、カフェでお茶をしていたりすると、集団やカップルで様々な人種や国籍の人たちを見かける。みな、自分の国の言葉を喋っている。アラビア語で談笑しているトルコ人の若い男性の集団の隣に韓国人の女子高生が韓国語で笑っていて、その隣にジャマイカ人のカップルがいて、その隣にロシア語でペチャクチャと世間話をする東欧系のおばさんたちがいる。これら全てが自分が立っている地下鉄の車両のドアの近くで行われている。民族や人種間ですごく混ざっているわけではないが、お互いに対する怪訝や嫌な気持ちは全くもって皆無なのである。「るつぼから出てきたものがアメリカじゃなかった」=「アメリカにならなかった」ものに対して未だに恐怖や訝しさを持つことが多いアメリカとは大きな違いだ。

トロント大学で言語学を専攻する、フィリピンとバルバドスのハーフの青年から聞いた言葉。「アメリカは人のるつぼかもしれないけど、トロントは『人のキルト』なんだ。全ての人種や国の人は自分のパッチがあって、それがお互い縫われていって、一つの大きなキルトができる。一つ一つは個性的で美しくて、合わさるともっと美しくなる!素晴らしいでしょ!」

ーー内と外

ちょうどトロントの多様性に日々衝撃を受けていた時、日本では曽野綾子がアパルトヘイトを思わせるような内容の記事を産経新聞に投稿したいうニュースが少しだけ話題になった。上記の赤い部分をクリックしていただければ全文読めるが、概要はこうである。日本の経済の今後を支えることに対してなのか単にフェミニズムの一環としてなのか、とりあえず女性がさらに社会進出しないといけないと踏んだ曽野綾子は、それを実現させるためには、まず日本に移民を受け入れ、今女性がやっている家事や介護の仕事に就かせればいいという考えにいたった。しかし移民なので基本的には常にチェックが必要で、完全なる日本人と同じ権利は与えない、という意見。まあ、アパルトヘイトを思わせるというか、完全にアパルトヘイトである。この記事は多くの批判をよんだが(当然そうあるべきなのだが)、まず、現安倍内閣と色々な意味で近い、日本という一応先進国の中で有識者として知名をもっている人間がこのような発言をして、それをその一応先進国の大手新聞社が普通に記事として掲載することに、「あ、これが日本の現状だな」と直感的に思った。

日本人は日本のことを「多様性がない」とか「単一民族・単一思想・単一政治国家」とか言われるのを嫌がるが、正直、もちろん個人的な意見になるが、このプロジェクトをやりはじめてからは、今まで以上にそれを感じている日々である。もちろんミクロ的には色々な思想も意見もある社会だが、大きくみれば全て一緒。で、これは「多様な社会」というテーマに対してでもその通り。

最近、一つ自分の中で大きな勘違いがあったなと気づいたのが、「日本人は外国人が好き」という考えに対するもの。日本を離れた2014年の暮れ、自分が働いていた業界ということもあり、会社で作業をしながらテレビに映る夕方のニュースをチェックしていると、毎日のように「外国人、B級グルメを食す!」や「温泉街をはじめて回る外国人!」など、外国人にスポットを当てたコーナーが流れていた。当時は、視聴率もいいからこんなに企画されるのだろうし、「夕方のニュースを見ているおばちゃんたち、どんだけ外国人好きやねん!」と思って見ていたのが、後ほど気づいたのが、おばちゃんたちが好きなのは「外国人」ではなく、「日本が好きで、日本の魅力に驚く、観光客の外国人」だということ。そこには大きな壁があり、その外国人が「移民」となった瞬間、話が一変する。テレビに映る、遠い温泉街でラーメンをすするブラジル人は好きだけど、そのブラジル人が自分の街の商店街をウロウロしてたら、「まあ怖い」=「外の人」になるのだ。

ーーIt's all in the mind

前の会社の仲の良かったディレクターさんの粋な計らいでトロントの寒波を関東ローカルのお天気のニュースにしていただいたのだが、その時久しぶりに日本のニュースを見て感じたのが、実は前小節と関連する違和感。当たり前かもしれないが、女子アナも、気象予報士も、どちらも「日本人」という「人種」であること。トロントのローカルニュースで、メインキャスターが黒人の女性、サブキャスターが人種が不明の男性という、アメリカでも考えられない「白人が一人もいない」放送を見たばかりだったのでなおさらそう感じたのかもしれない。しかし、これが「多様な社会」を語る上で、最も根本な部分だと思う。日本社会では、夕方のニュースを見ている普通の日本人のおばちゃんは、例えばタイ人の女子アナとインド人の気象予報士が伝えている放送を普通に見れるだろうか?おそらく「なんでタイ人が関東のローカルニュースを伝えているの?」と思うであろう。そのタイ人が日本で生まれ育った、完全に「日本人のタイ人」だったとしても、今の日本の社会は彼女を「日本人」だと認識しない。むしろ、まず放送局が外国人をアナウンサーとして雇う日がくるのか。(ちなみにカルガリーでは故郷の伝統服をまとったまま天気予報を放送する気象予報士がいる!※リンク先4番)

「多様な社会」というものは全て頭の中で作られるものなのである。多様性=許容性とでも言うべきか。日本はやはり未だに一種のゼノフォビアに覆われている。現在の日本社会、世界で最も安全で、犯罪が少なく、ゴミ一つ落ちていない、山手線に忘れ物をしても一周回って誰も盗まずに戻ってくる社会は、「みんな日本人」だから成り立つと考えている。そして移民が入ってきた瞬間にその完璧に保たれたハーモニーが崩れる。街は犯罪に溢れ、都市にはスラムができあがり、良き時代を生きたものが恐怖に怯える社会に変わると。

しかしここに面白いデータがある。トロントは、世界で最も人種的に多様な都市であると同時に、北米で最も安全な都市でもある。信じられる?あれだけ色々な人種と国籍と、さらには性や宗教に対する思想がごっちゃになってる都市が、最も安全なのだ。なぜか?世界は二つの相違する思想が隣同士に存在するだけで戦争が絶えない場所で溢れかえっているのに、なぜトロントは安全なのか?答えは一度住んでみたら一目瞭然である。それが「当たり前」だからだ。「多様な社会」は全部頭の中で作られる。「みんな違う?当たり前じゃん!だれもみんな同じだと思ってないし、同じになる必要性なんて感じてないよ」そう皆が思っているので、違うことが問題にならないのだ。

ーーどんな社会に住みたい?

前述の言語学を専攻していた青年が述べた一言。「知ってる、リオ?世界中のほとんどの国では、むしろモノリンガルの方が珍しいんだよ。」とても考えさせられる言葉だった。みんな英語しか話さないアメリカの北西部と、みな日本語しな話さない日本を行き来していた自分は、ずっと「なんでそんなに日本語話せるの?」とか「バイリンガルなの羨ましい!」とか言われ続けてきた。でも世界を見てみると、ほとんどすべての国の人間はバイリンガルなのである。この言葉を発した彼も英語、フランス語、母語のタガログ語と、そして一度も日本を訪れたことがないのにもかかわらず流暢に日本語を話した。

トロントからボストンへの飛行機に搭乗しようとした時。カナダ発の便は飛ぶ距離的にも、多くの場合アメリカの空港の国内線ターミナルに到着するため、カナダ国内で税関を行う。それはそれで不思議な感覚だったのだが、訳あってアメリカに日本人として入国しなくてはいかなかった故に税関のおじさんにパスポートを渡したところ、さらに不思議な体験に見舞われた。

「キミ、ニホンジン?」

突然日本語で言われたのである。見てみると、尖った高い鼻と、耳の穴から垂直に3cmほど伸びている耳毛を誇る、エルフ族の長老みたいな顔をした白人の男性だった。

「ハイ、右手ダシテ。オヤユビ、ツギ、ユビヨッツ。ハイ左手オナジ。ハイスキャンオワリ」

あまりにもペラペラと続くのであっけにとられていたが、思わずこちらも日本語で返してしまった。

「おじさん、なんでそんなに日本語しゃべれるの?ってか税関の人ってことは、他の言語もこんあにしゃべれるの?」

「イヤイヤ、スペイン語。アトハチガウノモチョット。トロントイッパイ人イルカラ全部デキナイ」 衝撃的だった。この税関のおじさんは日本語もこんなに話せるのに、他の言語もこれだけ話せるのか。

「おじさん、でもなんで日本語そんなに話せるの?」

「昔ロサンジェルススンデタ。チョット日本イッタ。ロサンジェルススンデル変ナガイジン、ミンナ日本語ハナセル!!」

いやいやいや、とツッコミを入れたかったが、もう入国審査も終わっていたので、そこでおじさんとはお別れになった。感じのいい税関の人間に会うことでさえ珍しいのに、こんな印象に残る体験までするなんて、それこそトロントでの滞在を完璧に締めくくるものだなと感じた。

何が理想かは人それぞれだが、僕自身は、自分では思いつかないような、新しい、変わった考えや思想を持っている人間に囲まれているのが最高に楽しく、それこそが日々に彩りを与えると思っている。「多様な社会」というのはそれを作り上げる、一つの大きな要素である。トロントからボストンに向かうこの飛行機も、見回したら様々な人種で溢れかえっている。日本がトロントみたいになるのは程遠いかもしれないが(永久に無いかもしれないが)、せめて「バイリンガル」に憧れ続け、中途半端な英語教育からの唯一の脱出方かのように英会話ビジネスにお金を注ぎ込んだり、檻やガラスのあっち側だから安心という、ある意味動物園やテレビ番組的な感覚のみで外国人に心を開ける現在の日本社会を、ちょっとだけでも変えられたらいいな、と思いながら、まだ氷点下で雪の残るトロントを飛行機の窓から見下ろした。

text:
コミンズ リオ
cover photo:
Scott Webb
essay photos:
Leo Kominz
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18-04-02