LEO KOMINZ
"超成熟国"|ザ・その時決める@ストックホルム
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ーー超先進国 vs 超成熟国

バルセロナでの4ヶ月の留学を終え、ロンドンの自分のところへ居候しに来た妹が述べた興味深い言葉。「4ヶ月ヨーロッパにいて気づいたことは、ヨーロッパは確かに先進国の集まりなんだけど、そう考えたときに日本は『超先進国』になるんだよね。」とても面白い考え方だと思った。また、妹が述べたこの感覚は、日本以外の国で滞在したことがある人なら誰でもが共感できることだとも思う。アメリカ、そして特にヨーロッパの諸国は確かに先進国である。基本的なインフラは整っているし、最先端のテクノロジーはどこにでもあるし、飢餓・貧困・パンデミックなどの病気で苦しんでいる人々が全くいないわけではないが、その人らを日々目の当たりにするわけでもない。文化の違いや日常を生きる上での詳細の部分で「生活が不便」と感じることは多少あるかもしれないが、それが「発展途上だから」ということは皆無である。

しかしヨーロッパに滞在し日本を見てみると、こう言った「先進国」の部分があまりにも突出している、ある意味度を超えているというのがわかる。インフラを見ても、ヨーロッパの諸国でも電車は基本的には時間通りに来るが、東京規模の地上と地下を有する電車網が寸分狂わず、しかも山手線に至っては2分おきに到着するのは日本だけである。サービスを見ても、お店に行けば手を拭けるようにおしぼりがでて、買いものをするときに並ばなくていいように必ず店員がそのときやっている作業をやめレジにきて、お菓子の袋を開けるとその中でお菓子がまた個別に包装されている国は日本だけである*1。物件から車から家電まで、テクノロジーを賛美し、「新しいもの」に絶対的な価値を置くのも実に日本らしく、障害者や病気を患った人たち(そして話は肥大化するが基本的には「社会的弱者」全般)を一般社会の目から見えない場所に配置するのも実に日本らしい*2。ゆえに日本は「超先進国」なのだ。

「先進国」の先を、先進国の各要素を超越することで「超先進国」になったのが日本なら、スウェーデンは先進国の基本的な要素を残したまま、一つ一つの要素を問い直し、必要あるところでシフトチェンジを行い未来を切り開いた「超成熟国」である。超成熟国の根本にあるのは成熟した社会。成熟した社会をつくり上げるのは成熟した政府と成熟した国民。どういうことだろうか。

ーー真っ当な合理性

スウェーデン、そして北欧はある意味社会の一つの理想形として語られることが多い。これはこのプロジェクトを 始める前に書いた文章にも記載されているが、北欧についての文献や記事を読むと、いかに社会的に素晴らしいかばかりが目につく。子供の学力のレベルは世界最高峰、大人の就業時間は短く、社会保障のおかげで大学までの学費もいかなる状況での医療費も無料。ブータンという特殊国家を除けば世界で一番幸福度が高い国々。理由は人口の少なさ、税金の高さ、社会制度の特異性などが挙げられるが、根本にあるのは上記で述べた政府と国民の成熟した考え方にあるということを今回の滞在で気づかされた。この場合の「成熟」とはなにか。言い換えれば「真っ当な合理性」だ。

ストックホルム滞在時、いろいろな人と話すたび、いかに社会的に合理的かに気づかされ、日々驚かされた。むしろ、スウェーデンや北欧について今まで読んできたものは、すべて「合理性」、そして「真っ当であるべき」という考え方がベースにあり、その二つで答えが出るとわかった。とても単純である。仕事に関しては、「人間はちゃんとプライベートが充実したほうが仕事にも成果がでるし、本人も幸福度があがる。だとしたらちゃんと毎日休めて、休暇も取れるようにしよう」と考え、政府が法律を作ってる。ゆえにスウェーデンの会社員は皆16時や17時に帰宅するし(その分朝早く来ている人もいるが)、皆年間30日分の休みが保証されている*3。こういった極めて合理的な考えにより育児休暇(父母ともに1年以上取得できる)や、教育や医療の無料化(「人間なら勉強したいと思ったら貧富関係なく誰でも教育を受けられるべきだし、病気になったら貧富関係なく治療してもらえるべき」というまさに真っ当で合理的な考え)が決められている。

しかし、この成熟度は政府が決める法案だけではなく、国民の中にも養われている。ストックホルムにいる間、友人を通してある映像制作会社と広告会社のミッドサマーパーティに誘われた。様々な業界から人が集まり大変賑わっていたのだが、一つ気になったのが、そのパーティが木曜日に開かれていたこと。せっかくだったら次の日の仕事を気にしなくていい金曜日にすればいいのに。紹介されたその会社のデザイナーに聞いてみたところ、こう説明された。「スウェーデンには”Fredagsmys”という文化があって(直訳で、英語では”Cozy Friday”、日本語では『ごろごろ金曜日』だろうか?)金曜日は子供や家族と過ごす時間ってなっているんだ。一週間仕事をして家族とあまり過ごせなかったから、金曜日の夜は家族で食事をして、家で映画を見たり、ボードゲームをやったり。土日はサマーハウスにいくのも伝統だから、『家でごろごろ』が金曜日になるんだよね」…稚拙な表現だが、本当にすごい文化である。そしてなにより、「そんな古臭い考えなんてほっといて金曜日にパァーっとやろうぜ!」とならない映像制作や広告関係者もすごい。これが成熟した国民性なのだな、とその時感じた。日本での僕の知人の「広告マン」は、某業界最大手の広告代理店に勤め、クライアントとの会食があるせいで妻の出産に危なく立ち会えなかった。えらい違いである。

ーー脱資本と究極の平等

今まで滞在した都市の中で、最も慣れるのに時間がかかったのもストックホルムである。到着してから一週間ほど、外出する時に妙にソワソワした。ブログでも書いたが、半サイズ小さい靴を履いている感覚。普段は気付かなくても、ふとした瞬間に違和感を覚える、あの感覚。日々の生活の中で分析していくと、少しずつ解明できていった。ネオンがない。看板が小さい。広告が少ない。Vogue紙に「世界で最もイケてる15のエリア」として選ばれたソーデルマームでさえ、平日の22時には人っ子一人歩いていなかったりする。そう、気付いたのは、ストックホルムとは自分が今までの人生で住んできた都市と根本的に違っていたから違和感を感じていた。ストックホルムは脱資本都市なのだ。

スウェーデン、そして北欧の国家・国民の考えには、「真っ当な合理性」と共に、「究極の平等」という部分もある。北欧の国々の平等に対する考えは、日本の「先進」と同じぐらい突出していることがある。老若男女、貧富、国籍、家庭環境関係なく平等であるべきと考えるので、「移民や難民の言語学校の無料化」(スウェーデンに住む人は誰でもスウェーデン語は話せるようになるべき)や「女性の政治参戦」(男女による議席数の均一化への動き)などはまだわかるにせよ、聞いた話によると「学校における宿題の排除」(シングルペアレントの家庭では親が宿題を見れる時間が少ないため不平等)なども上がっているらしく、驚嘆した。しかし、納得はいくし、それで説明がついた。平等の対極にあるのが競争。そして競争こそが資本主義の根本にあるからだ。

スターバックスがストックホルムに上陸したのが数年前。滞在していた2015年の6月では3店舗しかなかった。シャネルやグッチといったいわゆるハイファッションブランドは路面店が基本的に存在しない。あって1店舗。フェラーリやロールスロイスといった超高級車は全く見ない。平等を基本とする脱資本都市では、「競争に勝ちました」という証であるものに価値はない。代わりによく見たのが高級オーディオ店やインテリアショップ。お金がないわけではないので、「ブランド価値はないけど、生活を豊かにする『いいもの』」を購入する。大学都市ウプサラに滞在する友人が述べた彼の最も「高級なもの」は、祖父母から頂いた食器だった。こういった話はいたるところで聞いた。「最も価値のあるもの」は家族や友人から頂いた、代々受け渡されてきたものなのだ。

スウェーデン語には”Lagom”という言葉がある。訳すると、英語で”just enough”、日本語だと「ちょうどいい」となる。スウェーデン人は「それ以上」は必要としない、「ちょうどいい」ぐらいの人生を生きようとするのだ。

ーーユートピアは存在しない

しかし、この”Lagom”という文化が存在し、それ自身がスウェーデン社会の政治的・社会的要素に大きな影響を与えていることはあまり知られていない気がする。ちょうどこの「ザ・その時決める」を書いている時に、安部首相夫人がワシントンで述べた「女性の社会進出」についての発言があり、 それに一言申す記事がいろいろと出た。そして案の定、女性の社会進出や教育に関して述べる際に、北欧(リンク先の記事ではフィンランド)が理想例として挙げられていた。しかし、北欧の法律については触れられることは多くても、北欧の文化について触れられることはほとんどない。北欧の法律や考えが成り立つのは、かの諸国が「成熟国家」だからである。「北欧って素晴らしい、日本も見習わなきゃ!」と声を大にして言っているリベラル系の日本人が、アウディに乗ってスターバックスを飲んでいたりすると、その時点で矛盾なのである*4。

ストックホルムを訪れる時に、他の都市同様、「誰か紹介してもらえないかな?」とストックホルムに昔住んでいた友達にいろいろ頼んでみたところ、ほとんど見つからなかった。帰って来た答えは「もうみんなストックホルムにいないんだよね」だった。これは滞在中も似たりよったりだった。ストックホルムで出会った20代の若者は、9割方みんな「早く前インターンしてたニューヨークに行きたい」「友達はみんなベルリンに引っ越した。俺も早く引っ越したい」「ロンドンから来たんだって?今ロンドンへの移住を考えてるんだ」と、「はやくストックホルムから抜け出したい」という願望を述べた。簡潔にいうと、彼ら彼女らからして、スウェーデンという国は、若者にはつまらないのである。若者からしてみれば家族がいないので、家族と過ごす時間を優先する制度も無意味だし、将来なんて漠然としていてよくわからないのに、「将来は安泰だよ」と保証する医療や教育制度も魅力的には感じられない*5。度を超えた競争主義の中で育ったものはその不平等性について口を出すが、究極の平等の中で育ったものはそののなさに飽き飽きし、競争が生む刺激と革新に憧れる。隣の芝生は青々と茂る。当然だが、ユートピアなんて存在しないのだ。

ガムラスタンの旧市街から、東の海へと見渡す。「社会」について考えると、いつも頭がぐるぐる回る。結局、国や都市なんて 「ハード」ありきじゃないか。スウェーデンだって、あれだけの国土があって、農業も漁業も盛んだから成り立つんじゃないか。ノルウェーに至っては油田をみつけて黒字国家だよ!しかも、スウェーデンの人口なんて多くて1000万人しかいないし、ノルウェー、フィンランド、デンマークなんて500万人強!結局なんだかんだIKEAやH&M、近年で言えばSpotifyなどのグローバル企業におんぶに抱っこだし。銀行も国民番号もクレジットカードもアルコールも全て政府によって厳しく管理されているし。シェンゲン協定が成り立って国境が緩くなった途端、スウェーデン人のおばあちゃんたちは初めて見る物乞いのジプシーに騙されるし、難民受け入れに反対する差別政党がどんどん力をつける。歴史が250年もない、移民によって作られた人口3億人のアメリカや、遠い東の端っこで海に囲まれたちっこい島に1億2000万人宿している日本と同じ状況になったら、「今のスウェーデン」って成り立つの?

そんなことを考えながら、「ミャー」と頭上でウミネコが鳴く。考えは、東の海に浮かぶ無数の島々のように広がり、霧散する。ミッドサマーを迎えたストックホルム。日光を欲し公園や海岸沿いに寝転ぶ人々に、太陽は、平等に光を注ぐ。

*1: 東京オリンピック招致のスピーチで滝川クリステルが日本文化の「おもてなし」を挙げ話題になったが、その「おもてなし」精神こそがある意味「超先進性」であり、日本のオリンピック委員会がそこを日本、そして東京のセリングポイントとして選んだのはさすがだな、とヨーロッパについてから今更ながら感嘆した。

*2: 例えばリオデジャネイロでは片足がない人、顔に異常な物体がついている人などを日常的にみた。また、ヨーロッパの都市にいると、車椅子や医療用の杖をついて歩いている人も毎日見かける。東京では障害者はおろか、妊婦などもあまり見かけないことにびっくりする。

*3: もちろん日本やアメリカでも法律上の休暇はあるが、ご存知の通り、それが強要されることはない。スウェーデンをはじめとしたヨーロッパの多くの国では、上司命令で強制的に休みを取らされる。有無は言わせてもらえない。年度の終わりに1日でも残っていたら、「なぜ部下は休みが残っているの?」と上司が人事部に怒られるだけではなく、最悪のケース、労働省などが会社に入る。

*4: 今回はあまり触れなかったが、スウェーデン独自のチェーン店はある。スターバックスはないが、代わりにEspresso Houseがある。また、基本の所得が高いため、メルセデス・ベンツなどはよく見るが、そこは日本と違いベンツを「高級外車」と見ない、感覚的な差異がある。

*5: 一つスウェーデン滞在中に知った面白いことが、「貯金」についてである。基本的にアメリカや日本に住んでいる人たちは、子供の大学費用や、保険が適用されない病気や事故などの、「万が一」や「保険」のために貯金している人が多い。しかし、学費も医療費も無料のスウェーデンでは、上と同じ理由で、貯金をする必要性がなく、同時にしている人が少ない。その代わりそのお金で家族で海外旅行に行ったり、ちょっといい買い物をしている。ここら辺もまさに「成熟国」。

text:
コミンズ リオ
cover photo:
Adam Gavlak
essay photos:
Leo Kominz
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18-04-02